第23回定例研究会の報告
4月16日(土)に大阪市立大学都市研究プラザ西成プラザで開催されました、第23回定例研究会について報告いたします。今回は、大阪市立大学創造都市研究科の大学院生で、NPO法人トッカビの鄭栄鎭さんに「トッカビ子ども会の取り組み、駆動力と条件」というタイトルで報告いただきました。参加者は15名でした。
まず鄭さんから自己紹介があり、1994年にトッカビ子ども会に関わり、現在は八尾市教育委員会で国際理解教育を進める嘱託職員として勤務する傍ら、トッカビの活動に携わっているとのことでした。その後本題へと入り、まず八尾市と在日朝鮮人の歴史について、戦前から八尾市に在日朝鮮人が暮らす要因として、まず交通アクセスの良さ、そして中小工場の進出と朝鮮人経営による工場等への就労機会の増加があげられました。また、トッカビが活動の拠点にする地区は被差別部落であり、部落産業への労働者としての在日朝鮮人の流入についても指摘されました。
そして、1974年に在日朝鮮人の子どもたちの教育支援を目的に立ち上げられた「トッカビ子ども会」の発足経緯について話が進み、地域で行われていた部落解放運動の中で、特に教育関係の運動に在日朝鮮人が関与しはじめたことがきっかけであると指摘されました。なお、「トッカビ」は朝鮮語 で「おばけ」を意味する「トケビ」「トッケビ」が由来で、「朝鮮の妖精」という意味があるようです。
トッカビ子ども会は発足後、部落解放運動が関係を持ちながらも、朝鮮人問題と部落問題の違いを意識しながら、1970年代終わりから80年代にかけて、在日朝鮮人教育に対する行政補償や各種国籍条項撤廃をめぐって様々な運動を展開してきました。こうした運動が成立した駆動力としては、「在日の現実から出発した民族教育を生活点である地域を取り組む」ということ、すなわち「民族」と「生活」の両立化にあったことが指摘されました。そしてこうした状況が成立した条件として、当該地区が被差別部落内にあり、朝鮮人人口が多すぎないということ、それによる日本人とのコミュニ ケーションがあったということ、さらには教員をはじめとした日本人の積極的なサポートがあったということがあげられました。
2002年にトッカビ子ども会はNPO法人となり、大阪府のNPO協働推進事業「在住外国人とともにつくる安全・安心なまちづくり」などを受託し、在日朝鮮人だけではなく、近年、地区に多く定住してきたベトナム人や中国人などを対象に、市民相談事業やこどもの学習サポートなど様々な支援 事業を展開しているようです。上記したような、これまでの経験を現在の運動や事業にいかに関係させていくかが今後の課題ということで報告は締められました。
報告後、「トッカビ子ども会」を巡る民団と総連のスタンスについて議論となりました。鄭さんの方からトッカビの運動は「行政との交渉の際に、できるだけ色をつけないようにしていたのでは」という返答がありましたが、そこをもう少し歴史的に幅を持って、戦前の協和会、そしてその後の両組織が地域にどう関与してきたかについても触れるべきではないかという意見もでました。また、支援する日本人教員たちの熱意について、いわゆる全共闘世代が地域にどのような影響を及ぼしたのかという点と関連させて評価すること、そしてトッカビの運動を支えたリーダーに対する評価、さらには日立就職差別裁判闘争をきっかけに組織された「民族差別と闘う連絡協議会」への評価を踏まえ、トッカビの運動を見ていく必要性が指摘されました。このほか、トッカビの運動や取組をよりマクロな捉え方、すなわちグローバルな見方で捉えていけば、よりその意義も明確になるのではないというコメントもありました。
まず鄭さんから自己紹介があり、1994年にトッカビ子ども会に関わり、現在は八尾市教育委員会で国際理解教育を進める嘱託職員として勤務する傍ら、トッカビの活動に携わっているとのことでした。その後本題へと入り、まず八尾市と在日朝鮮人の歴史について、戦前から八尾市に在日朝鮮人が暮らす要因として、まず交通アクセスの良さ、そして中小工場の進出と朝鮮人経営による工場等への就労機会の増加があげられました。また、トッカビが活動の拠点にする地区は被差別部落であり、部落産業への労働者としての在日朝鮮人の流入についても指摘されました。
そして、1974年に在日朝鮮人の子どもたちの教育支援を目的に立ち上げられた「トッカビ子ども会」の発足経緯について話が進み、地域で行われていた部落解放運動の中で、特に教育関係の運動に在日朝鮮人が関与しはじめたことがきっかけであると指摘されました。なお、「トッカビ」は朝鮮語 で「おばけ」を意味する「トケビ」「トッケビ」が由来で、「朝鮮の妖精」という意味があるようです。
トッカビ子ども会は発足後、部落解放運動が関係を持ちながらも、朝鮮人問題と部落問題の違いを意識しながら、1970年代終わりから80年代にかけて、在日朝鮮人教育に対する行政補償や各種国籍条項撤廃をめぐって様々な運動を展開してきました。こうした運動が成立した駆動力としては、「在日の現実から出発した民族教育を生活点である地域を取り組む」ということ、すなわち「民族」と「生活」の両立化にあったことが指摘されました。そしてこうした状況が成立した条件として、当該地区が被差別部落内にあり、朝鮮人人口が多すぎないということ、それによる日本人とのコミュニ ケーションがあったということ、さらには教員をはじめとした日本人の積極的なサポートがあったということがあげられました。
2002年にトッカビ子ども会はNPO法人となり、大阪府のNPO協働推進事業「在住外国人とともにつくる安全・安心なまちづくり」などを受託し、在日朝鮮人だけではなく、近年、地区に多く定住してきたベトナム人や中国人などを対象に、市民相談事業やこどもの学習サポートなど様々な支援 事業を展開しているようです。上記したような、これまでの経験を現在の運動や事業にいかに関係させていくかが今後の課題ということで報告は締められました。
報告後、「トッカビ子ども会」を巡る民団と総連のスタンスについて議論となりました。鄭さんの方からトッカビの運動は「行政との交渉の際に、できるだけ色をつけないようにしていたのでは」という返答がありましたが、そこをもう少し歴史的に幅を持って、戦前の協和会、そしてその後の両組織が地域にどう関与してきたかについても触れるべきではないかという意見もでました。また、支援する日本人教員たちの熱意について、いわゆる全共闘世代が地域にどのような影響を及ぼしたのかという点と関連させて評価すること、そしてトッカビの運動を支えたリーダーに対する評価、さらには日立就職差別裁判闘争をきっかけに組織された「民族差別と闘う連絡協議会」への評価を踏まえ、トッカビの運動を見ていく必要性が指摘されました。このほか、トッカビの運動や取組をよりマクロな捉え方、すなわちグローバルな見方で捉えていけば、よりその意義も明確になるのではないというコメントもありました。
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