第25回定例研究会の報告
第25回定例研究会が9月7日(水)に大阪市立大学都市研究プラザ西成プラザで開催された。今回は日本学術振興会外国人特別研究員、大阪市立大学都市研究プラザ特別研究員の黄嘉琪(ファン チァーチィ、huang chia-chi)氏に「日本における台湾出身者の移動と定住・大阪のオールドタイマーを中心に」というテーマでご報告いただいた。参加者は16名。
まず華僑・華人の概念および台湾の歴史について話された。日本に帰化した人が「華人」であり、中国に国籍がある人が「華僑」である(1972年までは日本政府は台湾を中国の代表としていた)、そのほか、老華僑(72年以前より日本にいる人)や新華僑(72年以降日本に来た人)などの言いかたもあり、華僑・華人の概念には特に定説はない、と説明された。台湾の歴史については、台湾はもともとフォルモサ(うつくしい島、ポルトガル語)といわれ16世紀にはスペイン、オランダの商業植民地であり、1662年に初めて漢族による政権が樹立されたが、1683年清の皇帝に降伏して以来清の支配下にあった。1894年日清戦争による清の敗北を受けて、1895年下関条約により日本の初の海外植民地となった、と話された。朝鮮の植民地支配より15年早いのである。
その後「なぜ台湾出身者が日本に移動してきたのか」について、インタビュー調査に基づいて報告された。調査対象者は友人の父親や中華総会からの紹介者(インフォーマル)で、50~60歳代の子供(中には3世)がいる在日台湾出身者である。さらに対象選考に当たっては、1945年以前に日本の植民地教育を受け、自主的に来日して日本に居住し生活基盤を持った人で、出身階層は中下層農業者である。
黄氏は「なぜ日本に移動して来たのか」に関しては、日本の植民地教育の問題が大きい、といわれる。日本語がうまく出来て、日本の文化をよく知っているから行きやすかったのである。また植民地支配によって上層部の支配層には変化があったが、下層の農民達には日本人が来ても支配が変わっただけで何も変わらず、特に異民族支配に対する反感はなかったというC氏の証言を紹介された。
1930年代における台湾出身者の日本への移動については、中国人の減少を穴埋めするように台湾出身者が増えていった。そこには留学(医者や弁護士)のために行く人、台湾籍ではまだ徴兵がなかったので日本へ労働に行く人、日本社会への憧れから移動する人がいたと報告された。当時は神戸への定期航路もあり台湾の駅から豊橋まで直通切符を買うことが出来た。台湾の若者達は、入学や公務員制度における不平等な措置に対して、社会的ステップアップを目指して日本へ移動したと報告された。
1945年以前に日本に移動したタイプには勉学、結婚、就労の3タイプがある。勉学は専門学校に入るのが多く、仕事のため、就労目的のための留学である。結婚は台湾で見合いして、日本人妻の身分で日本に渡るというものである。就労は台湾で日本の求人広告を見て日本へ行くというものである。これらはみな自分の意思で日本に行くのであって、ネットワークを通じた友人の誘いや斡旋者の存在もあり、船員による正規ルートでない「密入国」などの手段で行われたものもあったと報告された。しかし、戦局の悪化と共に台湾籍にも徴兵制が拡大してくるのである。日本の敗戦後には内地籍は日本国籍に、台湾籍は日本籍より排除された。
1945年日本の敗戦以降中国・台湾出身者の帰国希望者は少なかった。その理由は、①食料における「特配制度」があげられる。GUQは中国を戦勝国として扱い、台湾出身者は中華民国の方が特権を得られたからだ。中華民国発行の「僑民登録証」があると、無賃乗車、税金優遇、治外法権が実際には認められた。また、②財産の持ち出し制限があり帰国をためらった。また、台湾内部の状況変化が上げられる。まず、①国民党政府による在外台湾出身者の引き上げ活動に関する無関心、②台湾出身者の地位低下、③台湾の高インフレ・高失業率、④台湾の中華民国における徴兵制施行などがあげられる。また日本に残ることの利点は、①財産保有、日本での経済活動、②家族関係の拡大などが挙げられている。
まとめとして、「日本における台湾出身者の移動と定住」にかんしては、①植民地教育により日本語・日本の文化に慣れていたこと、②結婚して家庭を持っていること、 ③非「台湾人」非「日本人」の生活空間の存在、そしてこれらを④戦後の東アジアの輻輳する国際関係の中で見ていく必要がある、とまとめられた。
報告後、参加者との間で多くの質疑応答が行われた。その中には、調査設計と対象の属性に関するもの、また事実関係に対する質問としての渡航制度の問題と砲兵工廠での労働の可能性はないとの指摘、さらには日本での職業の種類への質問、また「渡日は日本への憧れが理由だったのか、その裏に台湾人を疲弊させる政策がなかったのか」などの質問が行われた。また参考文献を挙げてほしいとの要望もあった。
朝鮮半島と台湾の比較において、台湾の植民地化は朝鮮半島より15年早く行われているということによる、植民地としての同一性と、制度の実施における違い、日本における生活の成り立ちの違いなどを視野に入れておく事が必要であると、今回の報告を聞いて思わされた。この分野の研究は朝鮮半島の研究に比べてまだまだ少ないといわれており、今後の黄さんの研究におおいに期待するところである(文責:岩山)。
まず華僑・華人の概念および台湾の歴史について話された。日本に帰化した人が「華人」であり、中国に国籍がある人が「華僑」である(1972年までは日本政府は台湾を中国の代表としていた)、そのほか、老華僑(72年以前より日本にいる人)や新華僑(72年以降日本に来た人)などの言いかたもあり、華僑・華人の概念には特に定説はない、と説明された。台湾の歴史については、台湾はもともとフォルモサ(うつくしい島、ポルトガル語)といわれ16世紀にはスペイン、オランダの商業植民地であり、1662年に初めて漢族による政権が樹立されたが、1683年清の皇帝に降伏して以来清の支配下にあった。1894年日清戦争による清の敗北を受けて、1895年下関条約により日本の初の海外植民地となった、と話された。朝鮮の植民地支配より15年早いのである。
その後「なぜ台湾出身者が日本に移動してきたのか」について、インタビュー調査に基づいて報告された。調査対象者は友人の父親や中華総会からの紹介者(インフォーマル)で、50~60歳代の子供(中には3世)がいる在日台湾出身者である。さらに対象選考に当たっては、1945年以前に日本の植民地教育を受け、自主的に来日して日本に居住し生活基盤を持った人で、出身階層は中下層農業者である。
黄氏は「なぜ日本に移動して来たのか」に関しては、日本の植民地教育の問題が大きい、といわれる。日本語がうまく出来て、日本の文化をよく知っているから行きやすかったのである。また植民地支配によって上層部の支配層には変化があったが、下層の農民達には日本人が来ても支配が変わっただけで何も変わらず、特に異民族支配に対する反感はなかったというC氏の証言を紹介された。
1930年代における台湾出身者の日本への移動については、中国人の減少を穴埋めするように台湾出身者が増えていった。そこには留学(医者や弁護士)のために行く人、台湾籍ではまだ徴兵がなかったので日本へ労働に行く人、日本社会への憧れから移動する人がいたと報告された。当時は神戸への定期航路もあり台湾の駅から豊橋まで直通切符を買うことが出来た。台湾の若者達は、入学や公務員制度における不平等な措置に対して、社会的ステップアップを目指して日本へ移動したと報告された。
1945年以前に日本に移動したタイプには勉学、結婚、就労の3タイプがある。勉学は専門学校に入るのが多く、仕事のため、就労目的のための留学である。結婚は台湾で見合いして、日本人妻の身分で日本に渡るというものである。就労は台湾で日本の求人広告を見て日本へ行くというものである。これらはみな自分の意思で日本に行くのであって、ネットワークを通じた友人の誘いや斡旋者の存在もあり、船員による正規ルートでない「密入国」などの手段で行われたものもあったと報告された。しかし、戦局の悪化と共に台湾籍にも徴兵制が拡大してくるのである。日本の敗戦後には内地籍は日本国籍に、台湾籍は日本籍より排除された。
1945年日本の敗戦以降中国・台湾出身者の帰国希望者は少なかった。その理由は、①食料における「特配制度」があげられる。GUQは中国を戦勝国として扱い、台湾出身者は中華民国の方が特権を得られたからだ。中華民国発行の「僑民登録証」があると、無賃乗車、税金優遇、治外法権が実際には認められた。また、②財産の持ち出し制限があり帰国をためらった。また、台湾内部の状況変化が上げられる。まず、①国民党政府による在外台湾出身者の引き上げ活動に関する無関心、②台湾出身者の地位低下、③台湾の高インフレ・高失業率、④台湾の中華民国における徴兵制施行などがあげられる。また日本に残ることの利点は、①財産保有、日本での経済活動、②家族関係の拡大などが挙げられている。
まとめとして、「日本における台湾出身者の移動と定住」にかんしては、①植民地教育により日本語・日本の文化に慣れていたこと、②結婚して家庭を持っていること、 ③非「台湾人」非「日本人」の生活空間の存在、そしてこれらを④戦後の東アジアの輻輳する国際関係の中で見ていく必要がある、とまとめられた。
報告後、参加者との間で多くの質疑応答が行われた。その中には、調査設計と対象の属性に関するもの、また事実関係に対する質問としての渡航制度の問題と砲兵工廠での労働の可能性はないとの指摘、さらには日本での職業の種類への質問、また「渡日は日本への憧れが理由だったのか、その裏に台湾人を疲弊させる政策がなかったのか」などの質問が行われた。また参考文献を挙げてほしいとの要望もあった。
朝鮮半島と台湾の比較において、台湾の植民地化は朝鮮半島より15年早く行われているということによる、植民地としての同一性と、制度の実施における違い、日本における生活の成り立ちの違いなどを視野に入れておく事が必要であると、今回の報告を聞いて思わされた。この分野の研究は朝鮮半島の研究に比べてまだまだ少ないといわれており、今後の黄さんの研究におおいに期待するところである(文責:岩山)。
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