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第36回定例研究会報告

こりあんコミュニティ研究会第36回定例研究会報告        2013年11月18日

 テーマ:「ブラジルへの移民―異文化の大陸でいかに生きてきたか」
   報告者:上江(うえ)洲(ず)清(きよし)氏(テニアン島生まれ・沖縄からブラジルへの集団移民を経験)
 日時:2013年11月18日(月)19:00~21:00
 場所:大阪市立大学都市研究プラザ「西成プラザ」  参加者:12人

 今回は上江洲清氏にその人生を語って頂いた。彼の人生は複雑なので著書にある略歴を表にして後ろに添付した。上江洲氏は沖縄出身の両親のもと、当時日本の信託統治下にあった南洋群島のテニアン島で生まれてポナペ島で育ち、戦局の悪化に伴い6歳の時に沖縄へ帰国する途中に輸送船が撃沈されて、転覆しつつある船から命からがら脱出し、その後沖縄戦を体験した。戦後、19歳の時に家族でブラジルへ集団移住したが、約束とは違ってとても生活できる土地ではなく、別の地主に雇われて農業労働者として生活する事になった。その後27歳でブエノス・アイレスへ出て、ロスアンジェルス、ハワイを経て35歳で16年ぶりに沖縄に帰ってきた。40歳で再びブラジルに移住して23年間を過ごして、2002年に63歳で来日して現在に至っている。合計すると沖縄では18年間、ブラジルでは31年間生活した事になる。今回のご講演はこの内の、ブラジル移民の時の事が中心であったが、上江洲氏にはこの他に、5~6歳で太平洋上と沖縄で経験した戦争体験のお話、戦後米軍政下の沖縄の話、日本へ来てからの語り部としてのお話などの講演テーマがある。それらを小・中学生、高校生、大学の教育学部等の学生達、さらに一般社会人向けに多数講演されている。
 今回のご講演の内容は、①夢と希望を乗せて移民船は行く--待っていたのはジャングルだった②移民生活はすべてを失うことから始まる③初めて出会う現地の人とどう向き合ったか、言葉はどのように覚えたか④自分を見失わないために--山小屋のともしびのもとで音読の事始⑤うた哀し孤独の想い深山にこだましてロマンを呼ぶ⑥移民の試練「夜逃げ」に泣く--青雲の志いつ叶う、以上6つであった。
 この内の、現地の言葉であるポルトガル語を、始めて出会った人を通じて覚えていく方法、「何か?」=「ウキケ」の一言でいろいろ覚えて行ったという話は、現在の流暢なポルトガル語とスペイン語の原点であったという事で興味深い。また過酷な移民生活の極限では「逃げる」という行為を選んだという点に、昨今「強さ」や「努力」が強調される風潮がある時に、しんどい時には逃げて生き延びて行くことが人の生き方として認められた事として同感できるものが有った。
 もう一度おいで頂いて続きをお聞きしたいというのが反省会での総意であった。

[略歴]
生活地 滞在年数  年 年齢 経 験
ボナペ島 6年 1939年(S14) 南洋諸島「テニアン島」生まれ。ポナペ島育ち
1945年(S20) 6歳 沖縄戦終結(6/23)
沖縄 13年 高卒まで沖縄生活(13年間)
1958年(S33) 19歳 家族でブラジルへ集団移住
ブラジル
8年間 ブラジル奥地で7年間コーヒー、陸稲栽培→サンパウロへ
アルゼンチン  4年間    1966年(S41) 27歳 ブエノス・アイレスへ。クリーニング店,レストラン,日本語新聞社勤務。
アメリカ  3年間 1970年(S45) 31歳 ロスアンジェルスへ。ガーデンボーイ,日本人レストラン,日本語新聞社勤務。
1年間 ハワイへ
沖縄 5年間 1974年(S49) 35歳 16年ぶり沖縄へ帰省。セールス、旅行社勤務。
ブラジル  23年間 1979年(S54) 40歳 父の急逝で再びブラジル移住。安田火災保険南米支店、洋菓子卸業、旅行社出稼ぎ業務。
日本 11年間 2002年(H14)
2013年(H25) 63歳
74歳 出稼ぎで来日。以後現在(2013年)まで、戦争と移民の語り部。


参考文献
上江洲清2012『戦場の小さな証人―太平洋上と沖縄での戦争体験』ドニエプル出版、大阪
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プロフィール

kocoken2009

Author:kocoken2009
こりあんコミュニティ研究会は、こりあんコミュニティにおける生活と文化への理解を高めつつ、当該地域コミュニティの再生のあり方について議論しながら、日本国内に限らず共同調査及び研究を行っていくグループです。
問合せ先:kocoken2009@gmail.com

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