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第42回定例研究会報告

ここ研 第42回定例研究会報告

  テーマ:大正区の在日飯場村と釜ヶ崎
  報告者:水野阿修羅氏
  日時:2014年12月27日(土)16:00~18:00
  場所:大阪市立大学都市研究プラザ西成プラザ   参加者:23人

 1970 年 6 月に西成に来てこの街で生活している。 当時、朝鮮人差別の落書きが大変多かった。釜に来る求人業者に在日が多かった。労働者は「日本人より朝鮮人の方がたちが悪い」と言っていた。これは 事実ではないが下層での対立関係を形成している。そのころ寺島珠雄氏と出会い、釜ヶ崎と在日との生 活レベルで連帯できないかと考えるようになった。
1980 年代に全国の飯場を調査した。その時、博多築港のドヤ街、熊本白川河川敷のドヤ、札幌の豊平川のドヤなどを回った。不法占拠の所は70 年代 に無くなってしまい、ドヤ―不法占拠―在日の関係 についてはわからないでいる。
 尼崎には飯場村がある。ここは遊郭が飯場になった。大阪空港にあった飯場村の中村地区は、もともと大正区にあった空港(木津川飛行場)が伊丹に移転した時の工事をした在日がそのまま住みついてで きた。現在は移転が完了したが、1 軒だけ存在している。
 釜ヶ崎に求人に来ている在日業者のほとんどが大正区から来ていた。なぜ大正区に集中して飯場村を 形成しているのか。平井正治(『無縁声声』1997) 氏は尻無川に沈んでいる鉄屑拾いのガタロをやっていたのではと言っていた。大正区の飯場村にはNさん(後のN工務店)がスクラップの倉庫を置いたが、ここが大正飯場村の始まりではないかと考え ている。辛基秀さんの『大正区の朝鮮人』(1935-45)や『私の原体験 大阪・小林町朝鮮部落の思い出』(崔碩義)には戦前小林には一万人近い在日村があったと書かれている。外国人登録を調べると戦後は数百人に減っており、ほとんどが帰国したものと思える。戦前は朝鮮人の労働下宿が大正区、港区、此花区にたくさん有った。GHQが戦後人夫出しを禁止したので無くなったが、朝鮮戦争で復活してくる。大正区では戦前の労働下宿と戦後の人夫出しとはつながっていない。在日飯場のSとAは西成に出てきた。Aは飛田遊郭の真ん中に事務所を構える。Sはもともと露店のうどん屋だったが飯場をつくった。AもSも大正の飯場村 で飯場経営のノーハウを教わり西成へ出てきた。
 飯場経営のノーハウの始まりは姫路であったと言われる。高度成長期の姫路の工業地帯(播磨工業地帯)をつくるため、全国から労働者を集めた時に規模の大きな飯場経営が必要になった。在日の戦前からの 飯場経営のノーハウが活かされた。この事は今の東北の復興事業への進出にも引き継がれている。また 現在の飯場経営は建設と福祉を使い分けている。建設は警備との二枚看板を使っており、福祉は飯場で 生活保護をとらせている。
金時鐘、鄭承博、辛基秀、金文善、玄秀盛の各氏 に直接話を聞いたり本を読んだりして、在日の事を知るための参考にさせてもらった。
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第41回定例研究会報告

ここ研 第41回定例研究会報告            

  テーマ:在日コリアンの記憶をどう伝えるか
  報告者:
  中澤俊子氏(文化センター・アリラン) 「文化センター・アリラン活動報告」
  李美愛氏(在日韓人歴史資料館) 「在日韓人歴史資料館の設立とその後の活動について」
  藤井幸之助氏(同志社大学・こりあんコミュニティ研究会運営委員) 
           「関西における在日朝鮮人関係ライブラリー--1980年代を中心に--」
  渡辺泰子氏(高麗博物館ボランティア) 「高麗博物館の紹介」
  コメント1:柏崎千佳子氏(慶応義塾大学)、 コメント2:高野昭雄氏(千葉商科大学)
  日時:2014年11月15日(土)14:00~17:00
  場所:東洋大学白山キャンパス6402教室    参加者:30名
  主催:こりあんコミュニティ研究会   
  共催:東洋大学アジア文化研究所   
  後援:大阪市立大学都市研究プラザ

 今回の定例研究会は東京都文京区にある東洋大学にて開催された。
 まず中澤俊子氏から「文化センターアリラン活動報告」と題してご報告いただいた。文化センター・アリランは1992年に埼玉県川口市に創設され2010年6月に新宿区大久保に活動拠点を移した。図書館・研究・交流・図書販売の諸機能を有している。中澤俊子氏は個人的には許浚(ほじゅん)・医学書「東医宝鑑」に係わる活動を行っている。その目的は「中国に源を発する文化が朝鮮半島で咀嚼されてすばらしい歴史と文化になって日本に渡り、日本文化に根付いた。『東医宝鑑』はこの事を気づかせてくれる。これを日本の若者や在日の子供達に知らせて行きたい。」と言うことであった。
 次に「在日韓人歴史資料館の設立とその後の活動」と題し在日韓人歴史資料館学芸員の李美愛氏からの報告があった。在日韓人歴史資料館は2005年11月24日オープンした。歴史資料館の現在的意義は①これまでの在日朝鮮人の運動が権利を獲得するというものであったが、既に自らの歩んできた時代が歴史となり、在日朝鮮人史として後世に伝える運動として位置づける事ができる。②日本の近・現代史の中に在日の歴史を正当に位置づけ、無視・隠蔽して来た日本社会へその存在を示す。③在日に関する重要な資料の散逸を防ぐと同時に埋もれていた資料を発掘する。④これが一番大切だが、三世四世の歴史教育、社会教育の現場になる、と言うものであった。
 「関西における在日朝鮮人関係ライブラリー--1980年代を中心に--」というテーマで藤井幸之助氏が報告と問題提起した。従来の公共図書館には在日朝鮮人・朝鮮関係図書・資料がほとんどなかった。これに対して一世二世を中心にして、日本人も含めて私設図書館がつくられた。青丘文庫、猪飼野朝鮮図書資料室、学林図書室、青丘文化ホール、カラ文化情報センター、錦繍文庫の6館を説明したが、青丘文庫以外はすべてなくなった。在日朝鮮人関係ライブラリー・ミュージアムは個人的な努力では維持・運営は難しく、従って公的機関がつくるべきであり、その場は在日朝鮮人・中国帰国者・日系ブラジル人などの移民の歴史についても総合的に学べる場所である、とその構想を語った。
 また、今回の定例研究会では本会会員でもある高麗博物館ボランティアの渡辺泰子氏から、同館の取り組みについても特別の報告があった。高麗博物館は「市民がつくる日本・コリア交流の歴史博物館」であり、公的援助は受けておらず、会費と寄付そしてボランティアの活動で維持されているところが特徴である。設立は2001年12月、場所は新宿区大久保で7階が「文化センター・アリラン」、8階が高麗博物館になっている。基本的には「パネル展示」(最高28枚)を中心にして常設展示と企画展示がある。
 柏崎千佳子氏が以上の報告を受けてのコメントをしてくれた。テーマの「在日コリアンの記憶をどう伝えるか」を3つに分けると、「何を・誰に・どのように」となる。これらは決まりきったものではなく、今を生きる人達との関係の中で変わりうるし、これまでも変わってきた。「全米日系アメリカ人ミュージアム」(1992年・ロスアンジェルス)のメインの展示は、戦前の移民~戦時中の強制収容~戦後の権利回復運動であるが、直接に関わりのない日系アメリカ人も多く、実際には収容所体験当事者は減っている。ハワイの日系人は収容されていない。若者にはミックスの人達が増えている。日系とは何か、アイデンティティもはっきりしない時代になってきている。来館者も日系は少なく半分以下になった。そうするとミュージアムの存在意義は何かとなる。1つには、共通の体験や記憶がない人々に体験・記憶を伝えることの意味、受け継ぐことの意味は何かを考える事。2つ目には、一つの歴史に固定化されない、開かれた記憶のあり方とは何か。マジョリティの歴史が変更され、公的歴史が変わり得る可能性がある。一方で在日の歴史を考えたときには、1つの言い方でなく別の面の歴史もあると言うことが新たに出てくる事になる。3つ目には、記憶の残し方の様々な形態としてミュージアムや資料館などがあるが、『ハンメの食卓―日本でつくるコリアン家庭料理』のような、デイサービスで出される料理のレシピの本も、文化の残し方の1つの例である。
 東洋大学アジア文化研究所の松本誠一先生には開催にあたって大変お世話になった。あらためて御礼申し上げる。
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kocoken2009

Author:kocoken2009
こりあんコミュニティ研究会は、こりあんコミュニティにおける生活と文化への理解を高めつつ、当該地域コミュニティの再生のあり方について議論しながら、日本国内に限らず共同調査及び研究を行っていくグループです。
問合せ先:kocoken2009@gmail.com

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